LOSA_ERIKAの日記

芸能界隈を素人が視た雑感を勝手に書き綴る内容。

小林悠さんは、もう一般人だから。

アナウンサーはサラリーマンだから、とは私は言わない。公共の電波を使って、社とスポンサーの方針に沿った発言する役割を担う以上、少なくとも「世論大衆」の一部である一般人では無い事を自覚して、入社するから。だからと言って、極度な選民意識を持つような立場でもないのだと思っているのだけれど。

そして今、小林悠さんは、完全に世論大衆の「一般人」になった。彼女の私生活や私人としてのあれこれを、どうこう言うには、プライバシーの侵害になる。

だから、当たり障りのない範囲内で、あくまで私から見た個人的な意見のみを、ここで語りたいな、と思う。

昔々。私は、彼女が既に、表舞台に居る人だとは知らなかった頃。彼女の事を普通の、ごくごく普通の就活に勤しむ学生だと思っていた。だから、もうスタート地点が違うな、と思ったのは、彼女を電車の車内中吊り広告を見た時。きちんとお化粧をして、ヘアスタイルも変えて、社会人としてアナウンサーとして、色々な人達の手を借りて作り上げられた彼女の姿を見て、「完全にスイッチ入ったな」と思った。

下積みを経験している彼女は、既に着実に仕事をこなし、恐らく他のアナウンサーよりも群を抜いていたと思う。

人脈や人柄がほぼほぼモノを言う業界で、ギブアンドテイクが強い世界。決してスキルだけでは渡り歩けない世界だ。彼女はコネが無い代わりに、コツコツと自分で開拓してきた。着実に、計画的に。

決して被らないキャラ。趣味や設定など、目の付け所を考えて、徹底的に割り切って頑張った。素直に探究できる性格が、功を奏したのだろう。

私は、器用に生きてきた彼女を、応援しようと思った。

純粋に綺麗に器用にまっすぐ生きてきたからこそ、外れた路に溺れて器を大きくすることもある。大きくなった器にひびが入り、崩れる。そして、一旦立ち止まり、いかにまた立て直すか。そこで一人の人間として女として仕事人間としての人間性を象るのだ。

彼女の人柄どうこうは決して触れられないけれども、彼女の「生き様」に対してどの様な方向性に持っていくのか、陰ながら見守る事も最早出来ないけれど、心の中で声援をしたいと思っている。

ネタとして転がす事が出来る覚悟が持てる彼女の能力を、失わなければ良いな、と願っている。ただ、色々なタイプが居る中で、オタサーの姫的な現象に孕む実は危険なリスクを、少し詰めを甘く見積もっていたのかもしれない。想定外の事に対応できなかった割り切れなかったプライドは、まだまだ覚悟を要する立場である事を忘れて、その事に無意識になっていた事の表れかもしれない。

でもそれは、彼女がどの様な性格の持ち主であろうと、誰でも当てはまる事だ。

だからこそ、襟を正して、自戒を込めて生きる為に彼女をペルソナとして声援したい。頑張れでも無く、共感でも無く、煽る形な言葉で励ます事でも無く、どんな生活を送っていたとしても「そう言えば彼女、今どう生きているのかな」と、たま思い耽る形で。

成功したら人生なんて大問題。でも、その大問題を作るのも選択するのも自分。

そして、機会は慎重に。

今は色々、自分なりに休んでほしい。

山口智子を「出産しない(したくない)人間」にさせたトラウマが悪い

ってことでしょ?

人それぞれで、家庭は十人十色。産んでも産まなくても、女性の人生はそれぞれ。

そうじゃなくて、山口智子が「可哀想」なのは、両親の離婚によってトラウマを乗り越える事が出来ず、自分が「親」になるという選択肢を精神的に削除されてしまった事。

両親の離婚によって、トラウマが反動となった力で親になりたい気持ちや自分が我が子を愛する女性になった人も居る。それも、色々どうかとは思うけれども。

それを言ったら、妊娠をして逆玉結婚を急かせる女性も居る。自己満足でしかない親に。他にももっと疑問視する親はいる。虐待をする親、赤ちゃんポストに頼ってしまった結果となった気の毒な女性もいる。そう。親になっても、沢山違和感を抱く様な女性は沢山いる。

私は、山口智子はその類にふるい分けられると思う。

確かに、産まない選択肢は、在って当然。でも、本来なら産めたはずであろう女性だ。もしかしたら産めなかった身体の女性かも知れない。子どもを作れない体質の男性だったかもしれない。色々あるかもしれないけれど。彼女は「トラウマ」を公言した。

トラウマを乗り越えられなかった彼女自身が弱いかどうか、そのせいで親になれなかったのか、そこは彼女自身の生き方の責任かもしれないけれど、もっと重要視すべき点は、彼女に寂しい思いをさせて「精神的に産む気が無いから産まない選択肢」をさせた、両親の責任だ。一種のDVだと思う。

親になる事で、山口智子が壊れてしまう事があるのかもしれない。だからコントローする為に彼女なりの最善の策なのだと思う。これは、とても「気の毒」な「産まない選択肢」なんだと思う。

結果的に、「二人でいつまでも恋愛したいから」という形になったけれど、悲しい形だ。

だって、唐沢寿明は、両親によるトラウマは無いでしょ?お互い不幸な境遇で、それを補う形で、結果「自分達は、成育過程を振り返ると、親には向かないね」という結論を出した訳ではない訳で。

山口智子を庇う形で理解を示した夫・唐沢寿明が、ただただ逞しくて健気で、そして親になると言う選択肢を考えられなかった山口智子が気の毒だ。

気の毒の後遺症ではないけれど、本当に二人でいつまでも彼女のトラウマを癒してあげる事に一生を捧げて、添い遂げてあげて欲しいな、と思った。

両親の離婚と言うのは、本当に子どもの心に大きなダメージと、そして将来まで左右させてしまうのだな、と思った。

ベッキーは(今後恐らく10年は)復帰しないと思う。た、多分。

さんまが、ベッキー枠について語った事だ。さんまは口が堅く、自分なりに「もうネタ晴らしをしても大丈夫だろう」「しがらみが無い」と確信するまで、その人の「あの時」を語らない。

さんまは、ベッキーが今まで、このキャラに至るまでにどんな苦労をしてきたか、水面下を語った。ベッキーがバラエティで汚れ役を積極的に引き受けていた時期、まだ優等生キャラをそこまで出していなかった時。同じく羽田陽区に斬られてショックで大泣きしていた女性がいた。後日談として、その女性がスタジオでさんまに話すと、「昔ベッキーも羽田陽区に斬られた事があった。結構凹んでカメラ回ってない時や、楽屋でボロボロに大泣きしてた。『これで良いと思って仕事してたのに、皆からそんな風に見られてた位なら、今までの仕事は無駄だったって事か』と言ってた。羽田陽区に斬られるって事は『売れてる』って事なんだから、むしろ喜べって言ったけれど。」と言った内容だったと思う。

SMAPの時も、テレビで公開処刑が終わった後、ようやく、さんまはSMAP事情を昨年の12月には既に知っていて、クリスマス特番が凄くやりにくかった・紅白も見ていられなかった、などと告白した。他にもいろいろなデリケートな話題に対して、「時効」と判断した者に対しては、最低限の言動で、当人たちに変わって弁解をするかのように言葉を選んで話す。

そういう事に対しては決してオシャベリじゃないし、むやみに話さない人だ。そのさんまが、「ベッキーはあれで苦労したから。日本人よりのハーフだから、ハーフを活かし難い。どの様に立ち回ったらいいか、徹底的にバラエティを学んだ。間合い、合いの手、リアクション…」と言った水面下の苦労や、イロハを、ベッキー枠を狙うハーフタレントに伝えた。

それを、新しいハーフタレントや埋没しているハーフタレントに伝えたという事。ベッキーは過去の人かの様な印象を受けた。

印象を、受けただけ。なんだけれども、何でベッキーが今までしてきた努力のイロハを、ベッキー枠の皆に伝えるのかなあって思った。彼女の仕事が無くなるって事でしょ?って事は…と思った。

私は、彼女は妊娠してると思う。これも勝手な憶測にすぎないけれど、ここしばらくは、カムバックはしないと思う。引退したと思ったら、若槻千夏の様に、あっけらかんと時折戻ってくるかもしれないけれど、流石にあっけらかんはないか。

ウリナリだったかな…社交ダンスでベッキーが腹筋を一日50回?100回?して、お腹が割れてたんだよね。それを自画自賛してたけれど、画面を通しても「凄いな」と思うほどの身体だった。ダンスも頑張ってる様子が自宅での練習も放送してた。その一方で、ダンスのパートナーのロバートの誰かと組んでたんだけど、全然踊れて無くて。練習をしてない自慢をしていて、ヘラヘラ笑いながら「何とかなるっしょ」みたいなノリで、ベッキーが「ちょっと…最悪なんですけど。やる気出して下さいよ。仕事なんですよ?これで試合するんですか?自分がバカみたい…」と。結局上手く行けなくて、終わった後はヘラヘラご機嫌取りをする彼とは顔も合せず、ベッキーはずっと、顔を伏せたまま悔やんでた。泣きながら、他の選手の応援をしてた。

多分、さんまのいう「バラエティの中で手探りをしていた期間」だったのだと思う。その姿を見るまで、正直私もベッキーはロバートの様に「何とかなるっしょ」タイプだと思ってた。だから、彼女の人となりは解らなかった。多分、ナメられてたんだと思う。過度な優等生キャラを演じてたのは、そういった「誤解による不快感」の経験もあるのかな。

他のモデルの女の子と一緒に映る時は、スタッフさんがベッキーをヨイショしなかったどころかベッキーに対して少し乱暴な言い方をしていた事も過去にも書いたけれど…。

確かに、ベッキーは努力してたんだな、と言うのは解るけれど。自分のギャップに苦しんで黒い物が大きくなって、こういう結果になるのであれば、彼女は自分のライフプランを見失っていたんだな、と思わざるを得ない。

例え、その時はただただ真っ直ぐ前進していたとしても、自分のメンタル管理もできていなければ、結局はこうなる。

フリーの「ジャーナリスト」もピンキリ

大手新聞会社に十数年以上勤める間、賞をとったり、人望もあり、社内でそれなり以上にやり切って、それでも「会社」から出た方が取材するメリットが何かしら在って、会社や同業者から惜しまれつつ退職し、フリーになった人も居る。

その一方で、大手マスコミに対して自分自身が承認欲求を満たす事が出来ず、コンプレックスを抱えたまま、虚勢や怒りや虚無感やらの反動でフリーとしてジャーナリストを生業とし、フリーとしてジャーナリストになった(堕ちた)人も居る。

後者の人間を度々見てきたけれど、何だか品性の欠片も無くて、正直言って「柄が悪い大人」に見えた。鬱じゃないけれど、必要以上に言葉に対して神経質になってて、冷静さを欠いている感じ。被害妄想や自意識過剰だとか、その類を感じる。生活が懸かってるんだから、当然と言えば当然なんだろうけれど、その類の人達に知性や教養は感じない。「ああ、ハブられた人なんだな」と言うのがよく解る。

マスコミは、組織の中でいかにうまく世渡りが出来るか、そういう人となりの人間を採用する。つまり、憎めない・可愛がってもらえる人・友達や親友として紹介できる人などなどなど。角を立てず、それでいて芯を持っていて、上手く表現できる人。

とてもじゃないけれど、正直言って後者の人間は、組織では上手く立ち回る事が出来なかったんだろうな(出来ないだろうな)、上手く入社できたとしても、長くは持たないだろうな(5年前後でクビか辞めてしまう)という人だというのが、うっすら透けて見える。

固有名詞は出さないが、フリーのジャーナリストで大抵炎上している人は、そのタイプ。

一方で、大手マスコミに居ながらにして、そして、それなりの職位に就いていても何かしらの失言や粗相をする有識者もいる。世渡りも上手いので、シンクタンクに勤務したり大学で教授職に就いたり、テレビのコメンテーターをしたりするけれど。外見こそ品性や教養が滲み出るけれど、性格の意地悪さの見え隠れは威圧感としてビンビンに伝わってくる。なんだろう、あの独特な感じ。

新興メディアか大手既存メディアか、フリーか大手マスコミ所属か、色々一長一短かもしれないところだけれど、一概には言えないぞ、という事で。

もっと言ってしまうと、変な人達のせいで、実力のあるフリーのジャーナリストも肩身が狭い思いをしてる人達も沢山居て、取材しにくかったりするんだろうなーと思う。「自分も含めて本人達に実力があれば別にそんな事は気にしないけれど。」と毛ほどにも気にしない人も居そうだな。

大手既存メディアで権威を持つ卑しい有識者が居たとしても、やっぱり「ブランド」の力は強い物で、「ああ、やっぱり〇〇社か」と思われても、その会社の記者自体を目の前にしても批判したりは出来ない。

そういう意味では、やはり大手既存メディアって強いよな、と思う。

どっちがタチが悪いか、と言えば、当然口も達者で世渡りも上手い、大手既存メディアで権威を持つ卑しい有識者の方。お粗末な内容であったり憶測や推測の域から出ていなかったり、子どもの駄々の様な炎上をするフリーのジャーナリストは、正直無視をすればいいだけの話。

なりたかったんだろうなあ、記者に。自分がその身の丈に合ってないこと、理想が現実に追い付いていない事、向いていない事に気づいてすらいない30代以降の人達…。

フリーのジャーナリストというか…何かの活動家だよなと思う。もっと自分の過去を振り返って、そこから正しい方向を向いて正しい努力をして、その時代に満たされなかった欲求をキチンと満たして、人生やり直しをして欲しいものだ。寒々しいし…。

でも、某フリーのジャーナリストで、そう言った類の人と話をしてたり、やり取りを見聞きしていて、そもそも発達障害の恐れがあるんじゃないかな、と思う人も居た。発達障害の症状と上手く記者職の適正に当てはまっていれば良かったんだけれども、自己満足の域から脱してない人、という印象。キチンとデスクの下で教育を受けて下積みをして…という事をしていても、いずれ外れてしまうか、開花するかギャンブルなタイプ。

自分の症状や性格をキチンと理解して世間様と上手くすり合わせを出来ているタイプは、それなりに世間から評価を受けたりしているけれど…。

なんか、色々考えると、「この人、何でこんな事してるんだろう」と思う人も、実は病気を持っているタイプかも知れないし、この手の疑問は深くてデリケートな問題を孕んでいるのかな、と思った。

はあちゅうのエリート意識

どこかで「はあちゅうは自分がエリート層だと思い込んでいる」という誰かの一文を読んだ事がある。

確かに、世間一般では中間層よりも上だと思うし、世論を形成する業界に居たから、決して非エリートではないと思う。

そこに所属していたのがほんの数年足らずだとしても。

彼女は環境に恵まれたけれども、成育課程において人には恵まれなかった。ゆえの歪み。

そして、彼女は確かにエリート層の社会の所属する人間かも知れないけれど、そエリート層には細かく幾層のピラミッドになっていて、そこの、どこの部分に所属しているのか。そこを突っ込むほど無粋な事は出来ないけれど、唯一言える事は、富裕層のインテリタイプでは無いという事。

頑張って高見に行っても、生まれ持って決まった絶対的地位には近づけないのと同様に、エリート層に入っても、そこに行ったら低層になると言う事。それが悪い事ではないと思うけれど、彼女は、エリート層に所属する事で暗黒時代の子達に「見返しができる」と思っていて。空回りに終わった彼女は、退職して、ベンチャーに行って、独立して…描いた理想とはかけ離れた現実を今歩んでいて、それでいてそこそこ満たされていて。なあなあになりかけているけれど、それによって徐々に卑屈になっているのがよく解る。

歳相応に解りかけてきた世間のピラミッド。そこに所属する自分の価値に見て見ぬふりをして、ついに自分より「下層」の人間に対して露骨に嫌悪感を出す事で自分の地位をマウンティングするようになった。

ちょっと、カッコ悪いと思った。

「貧乏」とか、色々やっかみをはねのける言い文句を、そのワード使うのは…はあちゅう自身が学生時代に一番コンプレックスで嫌だった「低層」という地位なのに。下の地位に居たからこそ、下の地位の人のコンプレックスを理解できるはず。その人達にやっかまれて、フォビアかよ?って思った。

スマートさが無いというか、品性が無いというか…心が欠如した真面目な女性は、やっぱり、ちょっとカッコ悪い。

 

高嶋ちさ子氏は毒親か 音楽家の親を持つという事とは

いわゆる「ゲーム機バキバキ事件」とかいう、親が子どもの躾の際に怒りの沸点に達して周りが見えなくなった状態の、あのバーサク形態。

それは、家庭内で起きた事。それを有名人が公の場で話してしまう事。

私は咄嗟に「ウケ狙いかな」と思った。ギャグギレ、あるあるネタ、私生活での子どもとのやり取り…それを小出しに出す事で、親近感を狙ったものなのかなと勘ぐった。子育ての為に音楽家とは言えもっとお金がかかるだろう。売り込むためにも自分の素を出して世間が好(高)反応が見受けられた点を掬い取って、その点に絞ったキャラ設定に右往左往してたのかと思った。

今回は、それが裏目に出て、「毒親」になった。

お笑い芸人の「くわばたりえ」のカミングアウト「つい叩いたりして、虐待してる私…どうしよう、と泣きながらさっきまで叩いてしまった子どもを抱きしめた。虐待してる自分も子供に対して辛い」といった事がテレビで公開されて、世間の母親から大きな反響を得た。

でも、高嶋氏はそれにはならなかった。ギャグギレにも、あるあるネタにも、ならなかった。多分、自分の主観を通じた一連のやり取りを開き直ったかのような態度で見世物の様に発表した事が良くなかったのだろう。

反省の色がない。それどころか、笑いのネタや自分の売り込みアピールが見え隠れしていたのが白々しく感じた。

私は、音楽家というものは感受性の強い生き物だと思っている。一般人の感性とはどこか違う。ピアノを習った事があったし、部活は吹奏楽だった。バイト先は音大出身や音大生が勤務する様な施設だった。皆誰しも何かにイライラしていた。ストレスの負荷がかかりやすく、喜怒哀楽が激しい。ちょっとしたことで、激昂する。いわゆるヒステリーと言う奴だ。

でも、そういう人の更に上をいくプロの音楽家の母親の子育ては、想像するに容易い。音楽家の子育ては、常にデリケートで神経質。彼女は自分自身を咎めたり、育児放棄したり、そういったタイプの母親では無くて、自己批判を劇場型にして自己ブランディングする事でストレスを分散している様に感じた。

音楽のスパルタ教育を笑いのネタにしているのだろうか。

自分自身による子供の子育てを笑いのネタにしているのだろうか。

笑えない。笑えない内容なのに、それを判断する事が出来ていない状況。

小島慶子氏も子育てには厳しい。女子アナとして日本語を扱う仕事や芸能界を知っているために、リテラシー教育にも敏感だし、正しい日本語の使い方にも厳しい。職業病が子育てに影響していると言っても良いと思う。

高嶋氏もそれに近しいのだろうけれど、音楽家独特の「攻撃性」を出してしまった事だ。音楽の世界のスパルタ教育と、子どもの子育てとは別物だという次元を超えている。更に、職業病が子育てに影響し過ぎて最早、スパルタ先生なのか親なのか、両方だとしたら母を愛して育っていくのだろうか…精神的DVになるだろうなあ。

音楽家独特の「攻撃性」を出した事で私たちが改めて感じた事。美しい煌びやかで繊細。その裏にはとんでもなく陰湿で女性独特のドロドロとした世界、そしてヒステリーな一面がある事を、彼女は「音楽」に少しでも関わった事がある人達に思い出させてしまった。

高嶋氏を見ても、決して「あんな素敵な女性でも、こんなお茶目な一面があるんだ」にはなりませんよ。全く。

世間の親の多くが、小さい頃はピアノ教室に通った事があると思う。気が強い先生もいれば、自分大好きなおしとやかな先生も居たと思う。大体解ると思うけれど、そういう先生が子どもを持つって…どういう接し方を受けるかは思い当たる節はあるんじゃないかなあ。

思い出したら恐怖。そう。恐怖でしかない。少なくとも私はそうだった。高嶋氏のお子さんの様子をみると、既に少し歪みかけていて。大なり小なり子どもは親の影響で「嫌だなあ」という思いを引きずりながらも、それを乗り越えて自分を形成して生きていく。

一般人家庭では考えられないような教育方法かもしれないけれど音楽家の家庭とは、想像を絶する世界なのだと思う。それを彼女はごく普通であるあるネタだと思い込み、音楽家の子育てをショーとして見せてしまった。

大袈裟な言い方をすると、わざわざ虐待現場を面白おかしく見せている様な、そんな感じ。

子育てに置いて感情のコントロールが出来ない事は親というのは、だれでもある事だと思うし、通過儀礼だと思う。でも、結構ヨロシクナイ出来事をショーの様に何度も投稿。ビジネスだとしても「子ども」という相手がいて成り立つ事に対して意識が全く足りていない。

親の自覚を主軸に置いているのか

音楽家のプライドを主軸に置いているのか

女の見栄を主軸に置いているのか

タレントとして売り込む事に主軸に置いているのか。

唯一言える事は、「子どもの人権が置いてけぼり」になっている事。子どもが家庭内でストレスを抱えた場合、大抵は社会で加害者になるパターンが多い。音楽家の子どもは、こうした家庭内で育っても、どうやってストレスを発散しているのだろう。学校で誰かにイジメをしているのだろうか。

とにかく、一般家庭とは違う家庭での子育てが、いかに特殊であるか、思わぬ形・違う形で垣間見る事が出来たと思う。「そうそう、そう言えば音楽家って、こういうキャラだよね…それが親になったらそうなるケースも、あり得るよね」としみじみと実感。

高嶋氏の一件で私たちが学べることは、「感情をコントロールできない事は人間ならだれでもあり得る事」それを「間違ったやり方でストレス発散してしまっている事に人間は無自覚である事」、「周囲の手助け無しに、子育ては出来ない事」だと思う。

高嶋氏は、同情の声を一部受けているようだが、実質的な援助(子育てにおける)は受けているだろうか。恐らく同情だけだ。そして周囲の好奇の目にさらされながら、また子供に負荷をかける負のスパイラルに陥るだろう。

旦那様や御両親、近しい友人がどこまで協力できるかが、彼女の子どもを救えるカギになるのかと思う。

被害が今、子どもの心に少しばかりの歪みでとどまっている内に。成育課程で歪めば、今度は彼が加害者になり、被害者を産むことだってあり得るのだから。

「おしゃれイズム」で高畑淳子と高畑裕太に観る生き方

発達障害かもしれない。それはもう、どこかズレてる所を見ると誰しも気づくし解る。母親である高畑淳子が息子の困ったエピソードは、巷でよく聞く

「うちの子全然いう事聞かないで~」

「この間なんて、こんな事してたんだけど」

みたいな、男子のあるある仰天エピソードとは、違う。男子って理解不能な行動をするけれど、それとは違う、違和感。

彼女はそれとは思わず(気づかず)、一般的な「息子ネタ」として話しているのだろうか。

恐らく、違和感に気づいていたら、相応に根回しはするはずなんだ。例えば隠したい場合はバラエティであれば台本を作ってもらう、逆に奇をてらった方が良いと思いアドリブで通すか。彼女は障害に気づかず無意識に後者の方法で息子をキャラ立ちさせようとしているのかと思う。

栗原類のように、「日常生活での生きにくさ」と言った支障をきたす事で気づく場合。悲しむことが多い場合。どうにもならず、成育課程から現在までの自己分析をせざるを得ない状況になった場合など。

あの親子は、そうはならなかったのだろうか。

でも、彼女は薄気づいてきたと思う。それが、今回の「おしゃれイズム」だった。七光りや二世といった我が子を売り出す為の親バカ心からくる親子出演とは、違って見えた。

障害者を持つ身内が社会で介助しながら、世間に出ているソレに見えた。

隣で母親が、息子を優しく介助しながらフォローする。

藤木直人と二人で撮ったコーナー企画も、ズレまくりだった。彼は「非モテ系を地で行く痛い青年」として売り出す方向でイジられる生き方をするのだろうか。といっても番組がそういう方向性で撮ってる様には見えなくて。事故。「何言ってるのコイツさっきから」という雰囲気が、藤木直人からカバーしきれないと言った様から見受けられた。

もう、本人達にどこまで気づかせるか、その上でどういう方向で売っていくか、栗原類さかなクンの様に、腕が無いと生きていけない。成功した発達障害者は、少なからずいると思う。そして、この障害を持つ人間は、芸能界だからこそ、何とか生きていけるところがあると思う。

でも、彼は、自覚無しに汚れ役をしている。これは酷いし可哀想な事だと思う。いつまでも母親がカバーしきれる事ではないと思う。抜きんでて素晴らしい演技力があるのだろうか。それさえあれば、発達障害者だからこそ演技と言う分野が他の俳優よりもより一層優れている、という事でも…正直感じない。

早く、彼に何か特異な技術を持たせてあげるべきだと思う。このままじゃ、ただのピエロだ。巷に居る発達障害者のズレをテレビでみせる事で認知させる思惑でもあるのだろうか。献身的な家族によって支えられている発達障害者。だからイライラする事があっても、頑張って生きている彼らに理解をして。なーんて意図は無いとは思うけれど、どうにかして好転して欲しいものだな…としみじみ感じた。

あと、彼は母親が芸能人なので、成育課程でも一般化出来ない。芸能人の子どもが「イジメ」に遭った場合、どう乗り越えることができたか。彼は自己完結型でやり過ごすことで今に至っているのだろう。だからこそ、精神年齢がスッポリ10代前半でストップしているように見える。

また、外見もお直しをしたり、ヘアスタイルやファッションもスタイリストが付いたりと、独特な雰囲気は軽減されていると思う。それを加味しても、どういったスペクトラムなのかを把握した方が、良いと思う。余計なお世話かもしれないけれど、本当に見ていて痛々しいし、親子や彼を見る度に、発達障害者の生き方というものを考えさせられるのだ。

栗原類さかなクンの様に、成功しないと発達障害者は罪、と言う訳では無い。でも、彼の場合はバラエティで良い方向に発達障害者の特徴が活かされているパターンではないから、「悪意はないんだよ」「彼の今の思考は、スタジオ内の進行・空気とは別次元に動いているぞ」と毎回冷や冷やするのだ。誤解されて生きにくい場を自ら産んでいる事も解ってないだろう。

彼に何か魅力が無い限り、難しいだろうな…。母親に依存していないと攻撃されるだろうし、だからこそ母親が傍で彼を介助している。

自覚をして、きちんと自分の特徴を把握したら、覚悟を決めてカミングアウトをしたらまた違う方向性で俳優としての生き方が出来るかも知れない。俳優じゃなくて、タレントとして色々とキャラ役割を当ててみて、彼がどこに収まるか、周囲も事務所も試行錯誤出来るかも知れない。

とにかく…親子は辛いかもしれないけれど、己を知るところから始めた方が良いと思いました。

おしゃれイズム、全然もう…大きな中学生が背伸びして大人に話しかけて、大人が白けて変な空気になってる画にしかなってなかったし。これも一つのオシャレなのだろうか。

これはこれで、新しいジャンル・キャラ確立になるのだろうか…。

自分の特徴を把握すると同時に特異な技術を身に着けたり、同時に同性の友達を沢山作って、ソーシャルスキルトレーニングを積んだ方が良いと思うなあ…。

高畑淳子が亡くなっ場合、彼は一人残りの人生を空回りばかりして過ごす事は目に見えてる。

要となる人物は、姉かな?マネージャーか?解らないけれど…

とにかく、発達障害者がいかに周囲に違和感を与えているか。それをテレビを通じてみる事・知る事が出来ただけでも、良かったのかな…もし、彼の様な人物が身近にいた場合、怒りや苛立ちや悲しみを受けず、理解する事、対処方法、周囲が悟らなければいけないのかな。

福祉に優しい昨今とは思えないけれど、個人単位で出来る事、思いやりや気配りなどは出来るはず。